モンテッソーリ教育とは of ミームアカデミー

モンテッソーリ教育って?

maria[1].jpg 皆さんはモンテソーリ教育という言葉を聞いたことがあるでしょうか。モンテッソーリ教育とは、20世紀初頭イタリアで生まれた幼児教育の方法です。「モンテッソーリ」とは人の名前で、フルネームを「マリア・モンテッソーリ(Maria Montessori)」と言い、イタリアで初めての女性医学博士で有名です。1950年、ノーベル平和賞の候補にもあげられたり、イタリアの旧1000リラ紙幣の肖像画になっていたりと、ご存知の方もいらっしゃるのではないかと思います。
モンテッソーリは、ローマ大学付属の精神病院で知的障害のある幼児が、床に落ちたパンくずで熱心に遊ぶ姿を見て、そうした知的障害児が指先などの感覚器官の刺激を求めていることに気づいたのです。そこで、彼らの治療に指先を動かすような感覚器官を刺激する玩具を与えることにより、その障害を飛躍的に改善することに成功したのです。そのことに端を発し、ローマの貧困家庭の子どもたちを対象とし、そうした感覚器官の刺激を応用した教育法を確立しました。
 後に、その教育法は世界各国で支持されるようになり、モンテッソーリ教育を実践する保育施設「子どもの家」が各地に設立されることになりました。日本においても、「子どもの家」は各地に点在し、モンテッソーリ教育を導入している保育園や幼稚園もよく見受けられます。ちなみに、最近では、Amazon.comの創立者ジェフ・ベゾス、Googleの共同創立者セルゲイ・ブリンとラリー・ペイジ、wikipedia創設者ジミー・ウェールズなどがモンテッソーリ教育を受けたと言われています。


人間には敏感期がある!

敏感期表2.gif モンテッソーリ教育のその中核をなしているものは、「敏感期」という概念です。人間が生まれてから死ぬまで、その脳の成長度合いは、一定ではなく、急速に大きく伸びていく時期があります。この時期を「敏感期」と言います。体の成長が15歳くらいまでに急激にあらわれてくるのと同じ考え方です。その期間にある子どもたちは、ある特定のことがらに対して非常に顕著に感受性があらわれ、敏感にしかも容易くそのことがらを吸収してしまうことができるという、「敏感期」とはまさに魔法のような時期のことなのです。
 敏感期は、生後数か月から9歳くらいまで続くと言われています。モンテッソーリ教育では、子どもたちにこうした敏感期に即した刺激を適宜与えていくことによって、強固な神経細胞網を構築し、その後の学習や仕事への取り組みをより容易くしかも楽しく取り組めるような自立した人間に育成していくことを目指しています。

「運動の敏感期」と「細部への敏感期」とは?

CIMG2459.gif わたしたちが生きて行くためには、まず日常生活をきちんと行えるような能力を身に着けて行かなければなりません。それは、生まれて間もない仔馬や仔牛が、天敵に捕食されないために、すぐに立ち上がり、歩き出すように、生きて行くための必須条件と言えるでしょう。ですので、何よりも先に、そうした能力を獲得するための敏感期がやってくるのです。つまり、それが「運動の敏感期」というものなのです。
 「運動」というと、走ったり飛び跳ねたり、といったことを想像されるかもしれませんが、ここで言う「運動」とは、人間が日常生活に必要な基本運動のことを意味しています。たとえば、歩いたり止まったり座ったりといった移動運動にはじまり、物を持ち上げたり運んだり置いたり、押したり引いたり倒したり、折ったり切ったりくっつけたり、はめたり掛けたり外したり、叩いたり撫でたり擦ったり つまんだり掴んだり握ったり、回したりひねったり絞ったりなど、主に手指を器用に使いこなす運動がこれに当たります。こうした運動は、たとえば服を着たり、ご飯を食べたり、物を作ったりといった日常生活をして行く上で必要不可欠な運動と言ってよいでしょう。
 さらに、こうした手指の運動には、その後の知的活動につなげていくための重要な役割が隠されているのです。わたしたち大人は、物の実体を認識する際に、その多くは視覚的な情報を頼りにします。つまり、物をいろんな方向から見て、それがどのような形になっているのかを認識します。
 ところが乳幼児は、視覚的認識力が未熟なため物の形をまず触って認識しようとするのです。こうした時期は、物の実体認識の過程であり、運動の敏感期とはまさに現実にそこにある物を触覚的に認識しようとする時期と言ってよいでしょう。触ってはいけないと何度言っても、乳幼児がその物を触ろうとするのは、そうした物に対する触覚的認識の衝動をどうしても止められないからなのです。乳幼児は物を漠然と触ることによって物の形状を認識し、同時にそれを視覚的に確認し、やがて触らなくても見るだけで物を認識することができるようになるのです。
 つまり、触っている感触が、視覚的にはどのようになっているかを確認するために、乳幼児は徐々に物の細かい部分について着目するようになります。「漠然と見る」から、物の形状を認識するために「注意して細かく見る」という行為に変わっていくのです。子どもは、大人が普段見逃しているような非常に細かい部分を指摘して、大人を驚かせることがあります。これが「細部への敏感期」、すなわち視覚的注意の過程ということになるのです。つまり、物を触ることは、見ることへの橋渡しであり、「運動の敏感期」が「細部への敏感期」を喚起すると言ってよいでしょう。

「秩序への敏感期」とは?


CIMG2377.gif 子どもは天真爛漫、元気いっぱい自由奔放な存在だ、ほとんどの大人はそう思っていることでしょう。しかし、実は、子どもはとても秩序が好きで、生後半年ほどから3歳くらいまでにかけては、特にそうした秩序に対するこだわりが強くあらわれてきます。自分の座る席、自分の所有物の場所、自分に関することだけではありません。「お母さんはここ」、「お父さんはここ」、「それはお母さんのもの」「それはお父さんのもの」などと、少しでもいつもと違ったことをすると激しく抵抗します。
 また、子どもに絵を描かせると、大人の想像を絶するとてもユニークな絵を描くことがあります。こうした絵を見て、大人たちは、子どもの発想は実に奇想天外だと褒めたたえることでしょう。ところが、当の本人は、そうした絵を描こうと思って描いているわけではありません。本当は、見たままの現実を一生懸命キャンバスに表現しようとしているのですが、遠近感を平面に投影する技術や色彩の複雑な調和が未熟なため、どうしてもうまく表現できないのです。
 そのため、子どもたちの多くは、物体を多方面から見た情報のうち印象に残った情報をすべて平面に表現しようとしたり、実際の色彩に似せることよりも、先に自分の思い込んだ色彩を表現してしまったりしてしまいます。たとえば、車を描く場合、子どもにとってタイヤとヘッドライトの印象が強ければ、車を真横から見た平面図の前方の方にヘッドライトを横に並べて付け加えたりします。色彩についても、空は青、山は緑、地面は茶色、顔は肌色、髪の毛は黒と、単色しか使用しなかったりします。これがまるでピカソの絵のように見えるので、大人たちは奇想天外だと思うのでしょう。
 このように子どもたちは、自分の見たものを簡略化して認識し、自分の身の回りにある物をできるだけ正確にではなく、できるだけ多く理解しようとしているのです。つまり、子どもにとって重要なことは、自分の身の回りにある物をおおまかに分類し漠然と理解することによって、早く安心したいということなのです。そのために、子どもは自分の身の回りにある物を、いつも自分の頭の中にある箱のどこに入れるべきか、一生懸命整理しようとしています。
 似たものを集め、頭の中の同じ箱に入れる。もし、多少の違いにより別々の箱に分類していたのなら、頭の中の箱はいくつあっても足りません。タイヤとヘッドライトがついているものは、多少形が違っていてもすべて「車」という箱に入れる、空や海はときにまったく違う様相になるけれど「青」という箱に入れる、まず子どもたちは、そんなおおまかな分類からはじめるのです。
 この頭の中の箱の分類作業を行う機会を、この時期に十分与えてあげないと、子どもはこうした秩序づけに対して無頓着になってしまいます。ましてや、子どもがせっかく行った秩序づけを間違っているとして修正したり、そうした秩序づけを子どもに代わって大人がやってあげたりすると、子どもは自ら秩序づけをすることを放棄してしまいます。たとえ、子どもがうまく秩序づけできなくても、成長するにしたがって、やがて頭の中の箱は細分化され、秩序づけが緻密になっていきます。つまり、整理のできる大人になるわけです。
 モンテッソーリ教育においては、このように秩序に対して強くこだわりを見せることを「秩序感」と言い、そうしたことが顕著にあらわれる時期を、「秩序への敏感期」と言います。この時期に「秩序感」を刺激する機会が十分与えられると一生涯有効な「秩序の感性」として定着することになるのです。
 「秩序」と言うと、とかく強制的なイメージがあると思いますが、この時期の「秩序」はむしろ子どもにとって自らの安心・安定を獲得するための自発的な行為であると言ってよいでしょう。子どもは、自らの安心のために、秩序づけを楽しんでやっているのです。そしてそれは、生命の理論にもとづいていると言ってよいでしょう。

「感覚の敏感期」とは?

CIMG2474.gif 3歳にもなれば、「秩序への敏感期」が原動力となり、子どもは、より自らの安心・安定を求め、より秩序づけを緻密にしようとして、自分の身の回りにある物をつぎつぎと分類・序列するようになります。分類と序列をうまく行うためには、何よりもより適切で多くの情報を取り入れる必要があります。つまり、よりよく見る、よりよく聞くということが必要不可欠となってくるのです。この時期には、すでに一方で、「細部への敏感期」が原動力となって、子どもは、物をよりよく見よう、よりよく聞こうとしますので、これらが相まってどんどん秩序づけは緻密になっていきます。
 子どもは、これまで無意識的に見て聞いていたものをこの時期を境に、意識して見る、意識して聞くようになっていきます。このように、目や耳を駆使することで、この時期、感覚器官がどんどん研ぎ澄まされていくのです。そして結果的には、多くの分類・序列をとおして「秩序の感性」がどんどん育成されていくのです。こうした時期を特に「感覚の敏感期」と言います。
 この頃から、ものごとの分類や序列に対する積極性はさらに増していきます。子どもと接触する機会が多い人なら誰しも経験したことがあるはずです。子どもが、しつこく「あれは何?」「これは何?」「それはどういうこと?」「それはこういうこと?」などと訊いてくる、あの疑問の投げかけです。日頃深く考えたことのない質問がつぎつぎと浴びせかけられるので、大人たちはそれを幼児がわかるように、どのように説明すべきか戸惑ってしまいます。
 このような子どもの現象は、一見、知識が少ないため単に何でもかんでも知りたがっているのだなと思いがちですが、それは単に知識だけを吸収しようとしているのではありません。「あれは何?」とその物の名称を訊いたあとに必ず、「それはどういうこと?」「それはこういうこと?」というように、その意味づけを質問してきたり、自分の認識と照合し、それが正しいかどうかを確認してきたりします。
 たとえば、図書館を指さして「あれは何?」と訊いてきたので、「図書館よ」と答えたら、必ず「図書館ってどういうこと?」と訊いてきます。それに対して「本を貸してくれるところよ。」と答えると、次に「そうしたら本屋さんということ?」と訊いてきます。「本屋さんとは少し違うね。」と答えると、子どもは困った顔をします。
 これは、「図書館」という概念を、子どもが一生懸命自分の頭の中にある箱のどこに入れるべきなのかということを思案している行為なのです。本を扱っているのなら「本屋さん」の箱に入れるべきか、いや「返さなければならない」のなら、いつも借りている「レンタルビデオ屋さん」と同じ箱に入れるべきではないか、はたまた「お金はいらない」と聞くと、「幼稚園の本棚」と同じなのか、などと悩んでいるのです。悩んだ挙句、「図書館」という新しい箱を頭の中に作るかもしれません。
 3歳の子どもが図書館を指さして「あれは何?」と訊いてきても、「建物よ」と答える大人はいないでしょう。それは、大人は、その子どもが目に見えている建物自体について訊いているわけではなく、その建物から本を手にした人たちがどんどん出てくるから、子どもはそれを疑問に思ったのだということを安易に想像できるからです。子どもは、その建物としての具体的な機能を訊いていたのではなく、図書館としての抽象的な機能を訊いてきているのです。
 このように、子どもの「秩序の感性」は、具体的な「物」から抽象的な「意味」を抜出し、「物」自体の分類・序列から、「意味」の分類・序列へと徐々に向けられるようになってくるのです。図書館の建物は、「建物」という物として分類するよりも、「図書館」という機能を持つ「意味」として分類する方が効率的であるということに、この頃の子どもは気づきはじめているのです。つまりこの頃、「秩序の感性」は、ものごとを抽象化しようとする「感覚の敏感期」をとおして効率化されていくのです。「感覚の敏感期」とは、いわば整理を効率的に行うための「抽象化の過程」と言ってよいでしょう。
 やがて、抽象的な「意味」は、記号すなわち発音(言葉)と表記(文字)にしっかり結びつき、「物」を実際に介さなくても、その発音(言葉)と表記(文字)だけで、他人と意思の疎通すなわち会話をすることができるようになります。そして、さらに、そうした発音(言葉)と表記(文字)は、思考活動へと展開していくのです。これが、以下でお話しする「言葉の敏感期」「数の敏感期」「文化の敏感期」へと躍進するための重要なプロセスとなるのです。
 そういった意味では、会話や思考や計算や役割づけといった、人間が生きて行く上で、どうしても欠くことができない基本的な知的能力の獲得は、まさにこの「感覚の敏感期」にかかっていると言っても過言ではありません。そのため、モンテッソーリ教育においては、この「感覚の敏感期」が、その他の敏感期に比して、もっとも重要であると位置づけられているのです。

「言語の敏感期」とは?

CIMG2547.gif 「感覚の敏感期」において、ものごとを抽象化し、それらを分類・序列する機会が十分に与えられると、幼児はつぎに、そうした活動をより合理的に行うために、よりものごとを「記号化」しようとしてきます。なぜなら、抽象的情報は、記号化することにより簡略化でき、さらに分類・序列が容易になってくるからです。その結果、頭の中の情報は、より整理され、集約化されていくのです。つまり、この活動こそが「思考」につながっていくのです。こうした「思考」につながる、ものごとをどんどん記号化しようとする過程を「言語の敏感期」と言います。
 記号すなわち言語は、コミュニケーションの手段であると同時に、「思考」の手段という人間の知的活動においてたいへん重要な役割を担っています。言語という記号には、発音(言葉)と表記(文字)が与えられています。「言語」に関する人間の活動は、「聞くこと」「話すこと」「読むこと」「書くこと」に分けられます。「聞くこと」とは、発音された記号を認識し頭の中で情報化することで、「話すこと」とは、頭の中の情報を言葉として発音することを言います。また、「読むこと」とは、表記された記号を認識して頭の中で情報化することで、「書くこと」とは、頭の中の情報を文字として表記することを言います。
 「聞くこと」の敏感期は、胎児の間からすでにはじまっていると言われ、その後「話すこと」の敏感期とともに、3歳くらいまでに顕著にあらわれてくるようです。つづいて、「読むこと」と「書くこと」の敏感期が、4歳くらいから6歳くらいの間に顕著にあらわれてくると言われています。つまり、言語に関する敏感期は、聞く→話す→読む→書く、の順にやってくるのです。ただ、それらは一つ終われば一つはじまるといったものではなく、それぞれが重なるように順次あらわれるといった感じです。
 3歳くらいまでは、主に絵本などを読み聞かせ、そこに描いてある絵を言葉と結びつける作業を十分に行う必要があります。それと同時に、幼児はその絵を指さして、自分自身がその言葉を発音し、その絵と言葉という記号を一致させようとします。これは、ものごとが記号化されたことを確認しているのであって、大人はその作業をけっして無視したり、中断したりしてはならないのです。
 とかく大人は、幼児に絵本を読み聞かせるとき、その内容を伝えることに意味があると思いがちですが、この時期の子どもは、ものごとの記号化がその中心的な作業となっているので、内容は二の次と考えた方がよいでしょう。絵本を読み進めることに気をとられ、子どもが何度も同じページを見ようとしたり、何度も同じ言葉を発したりしていることに対して、「ちゃんと聞きなさい」などと注意するのは、子どもが一生懸命絵の記号化を確認しているのを邪魔していることになっているのです。大人はそのことに気づかなければなりません。
 さらに、4歳にもなると、自ら絵本の文字を読むことで、文字という記号を頭の中で情報化するようになり、絵自体は、徐々に記号の意味する内容を補完する役目として位置づけられてくるようになります。この頃からようやく、子どもは絵本の内容について興味を持つようになってくるのです。この時期にゆっくりと読み聞かせを行ったとしたら、同時に文字の方をゆっくり目でたどり、一生懸命内容を把握しようとすることでしょう。
 また、この時期、記号化の確認作業としての「話す」から、自分の頭の中にある情報を言葉という記号として表現できるようになります。この頃から、子どもはしきりに自分の頭の中の情報を身近な人に一生懸命話そうとします。しかし、まだ、頭の中の整理が十分できていないため、なかなかうまく表現できません。ところが、頭の中の情報をこの言葉という記号に変換しようとする作業こそが、自らの頭の中が十分に整理できていないことへの気づきとなり、それがかえって整理を促していくということになるのです。
 さらに、5歳ともなると、子どもは、自分の頭の中にある情報を文字という記号として表現できるようになります。そうした時期には、今度は、自分の手で、絵本を書くなどという作業をさせることで、子どもはさらに自分の頭の中を合理的に整理することを要求されることになります。こうした作業の繰り返しにより、幼児は、ものごとを記号化することでどんどん頭の中が整理されていくという経験をし、結局のところそれが幼児の安心・安定へとつながっていくのです。そしてそれらは、やがて自らの「秩序の感性」をさらに成長させ、つぎの論理的思考という段階への意欲を増していくのです。

「数の敏感期」とは?


CIMG0011.gif 「言語の敏感期」は、ものごとの記号化の過程であるというお話をしましたが、数字も記号の一つです。数字とは、物の数や量という抽象の概念を記号化したものであり、その記号のみで、物の数や量を認識できるというたいへん優れた記号と言ってよいでしょう。もし、数字という記号がなければ、数や量の認識は、いつも物の実体に頼らざるを得ず、それでは正確な認識ができないということになってしまいます。
 言語としての記号は、誰においてもほぼ共通しているとは言うものの、それぞれの認識によって若干の違いが存在することは否定できません。たとえば、複数の人たちが「リンゴ」という言葉を聞いたとき、その「リンゴ」のイメージはそれぞれ大体同じでしょうが、やはりそこには人によって若干の違いがあるでしょう。より正確に伝えるためには、色や形についてのさらなる言葉の補足が必要となってきます。
 それに対して、数字としての記号は、たとえば「1」は「1」、「10」は「10」と、誰にとっても共通で、もっとも合理的な記号であると言えるでしょう。こうした合理的な記号を使用して思考することが「計算」というものであり、そうした「計算」は、もっとも合理的な結論を導き出す、もっとも論理的な思考であると言ってよいでしょう。
 わたしたちのまわりにはいろいろな数や量の概念があります。年、月、日、時間、順番、お金、長さ、重さなど、そこには必ず、大きい小さい、長い短い、多い少ない、重い軽いなどの比較が可能となります。つまり、子どもは、大きいものから小さいものへ、長いものから短いものへ、多いものから少ないものへ、重いものから軽いものへと並べるという概念がそこに存在するということに気がつきます。これは、「秩序の感性」における序列の概念を決定づけるものであり、整理の能力を飛躍的に伸ばすきっかけになるのです。
 また、たとえば物が10集まると、それを一束としてまとめることによって、その束がさらに10集まると100になるといった、そこにある物がいくつなのかが一目でわかるように、かけ算を利用した分類の仕方を覚えたりします。これを十進法と言い、わたしたちの周りにある多くの数量の概念には、この十進法が採用されています。これは人の手の指の数が全部で10本であり、幼児にとってはたいへんわかりやすい数の束となっています。また、右手で5本、左手で5本と別れていますので、両手で10本を半分にすることができる、つまりわり算を利用した分類の仕方にも役立ちます。
 ものごとの抽象化とその記号化がある程度できるようになった4歳~5歳にかけて、子どもは、数や量という抽象の記号化に目覚めてきます。この時期を「数の敏感期」と言います。この時期に数字の概念を利用する機会を多く与えることによって、数字自体の操作すなわち足したり引いたり掛けたり割ったりなどの計算が可能になり、それが論理的思考を生み出すことになるのです。「数の敏感期」とは、論理化の過程であると言ってよいでしょう。
 論理的思考は、ものごとを分類・整理するためには、欠くことのできない技術で、「秩序の感性」を構築する最終段階であると考えてよいでしょう。「秩序への敏感期」が原動力となりあらわれはじめた「秩序感」は、「感覚の敏感期」においてものごとを抽象化することで効率化され、「言語の敏感期」においてそれを記号化することで合理化され、さらに、「数の敏感期」においてそこに論理性が加わり、「秩序の感性」として完成されていくのです。

「文化の敏感期」とは?

CIMG2577.gif 個人の中に形成された「秩序の感性」は、さらに、人と物とのかかわり、人と人とのかかわり、といった文化関係へと展開されていきます。物にしても、言語にしても、数にしても、これまでは、自分を主体として、それらを主観的に分類・序列するのみでした。しかし、6歳も超えると、自分自身をも客体として、自然環境や社会環境の中でどのように関係を構築していくかという、いわゆる「文化」に対する意識が出てきます。これを「文化の敏感期」と言います。こうした兆候は、おおよそ9歳ごろまで続くと言われています。
 文化の敏感期にある子どもは、身の回りにある、あらゆるものごとへ興味を示してきます。たとえば、植物、昆虫、動物、人体、岩石、物質、天体、電気などの自然科学の分野、世界の国々、都道府県などの地域社会、工場や会社などの企業社会、お店や病院や交通などのサービス機関、警察や消防署などの行政機関といった社会科学の分野、音楽、絵画、彫刻、工作、物語、詩、短歌などの芸術の分野は、このころの子どもにとって「どうなっているのだろうか?」とたいへん興味深いものなのです。
 それは、これまで受け身であった自分が、積極的に他のものごとや他人にかかわろうとする衝動であり、自分を取り巻く環境の中で、自分のアイデンティティを見出していこうとするきっかけなのです。この時期に、多くのものごとや人に接することによって、子どもは、世の中のものごとや人々の生活を整理し関係づけることができ、環境の中での自分の役割を明確化できるようになります。つまり、そうした経験が、やがては社会の一翼を担う職業人として立派に成長するようになるのです。
 他人とうまくコミュニケーションし、協調すべきところは協調し、必要な場面ではリーダーシップを発揮し、責任のある行動を行う、こうした社会性は、世の中のものごとや人々の役割をしっかり分類し序列し、そこにある関係をしっかり整理することから生まれます。「文化の敏感期」とは、そのような社会での役割関係を整理しようとする、いわば「秩序の感性」を活性化させる時期、すなわちものごとの「関係化の過程」と言ってよいでしょう。そういった意味では、「文化の敏感期」は、その子どもが将来しっかりと社会性を獲得するための、もっとも重要な時期と言っても過言ではありません。
 社会性は、子ども同士のかかわりから形成される部分もあるでしょう。しかし、もう少し大きな観点からすれば、現実の社会がどのような関係によって成り立っているのかということを整理することによって獲得できる部分も多いのです。むしろ、集団の中で自分の役割を見出すような人間性の形成においては、子ども同士の閉鎖された人間関係よりも、社会全体を広く見渡すことができる実際の社会生活を体験する方が効果的であるとも言えます。
 なお、「文化の敏感期」に接する「文化」は、直接的にその子どもの将来の学問への興味や職業へ影響することがあります。自然科学の分野に興味をもつ子どもたちは、やがて生物学、医学、地学、化学、天文学、物理学などの学問への興味につながり、将来、研究者や技術者や医師などの専門家などになる可能性があります。また、社会科学の分野に興味をもつ子どもたちは、歴史、地理、政治、経済、法律などの学問への興味につながり、経営者や管理職、政治家やお役人、あるいは法律家などの専門家になる可能性があります。
 芸術の分野でも同じです。音楽家や画家や作家のみならず、テレビディレクター、建築家、ファッションデザイナー、グラフィックデザイナー、雑誌編集者などなど、ときには他の自然科学の分野や社会科学の分野への興味とあいまって、将来いろいろな職業に就く可能性を膨らませていきます。子どものころの夢が実現したという大人は少ないかもしれません。しかし、少なからず、子どものころに興味をもった文化活動が間接的にでも現在の職業に影響しているという人はいるのではないでしょうか。「文化の敏感期」は、こうした子どもの将来の職業を決定づける可能性もあり、そういった意味でも重要な時期と言えるのではないでしょうか。

環境の整備が重要!

NEC_0010[1].JPG モンテッソーリ教育の特徴は、何と言ってもそのカラフルでシンプルな木製教具を使用するということです。それらは、色や形、大きさや重さ、手触りに至るまで、すべて五感に働きかける感覚教具となっています。これは、人が情報を認識するためには、必ず五感をとおして行うため、まず五感を敏感にする練習を行う必要があるという考え方に基づいています。
 カラフルでシンプルということには、ちゃんと意味があります。カラフルと言ってもむやみやたらに配色してあるということではありません。感覚教具をはじめて手にする子どもたちは、たとえば色と形が混ざって変化している教具を見ると、その変化の焦点がどちらにあるのかということについて混乱してしまいます。そのため、初期段階で使用する感覚教具については、色の違いを認識させたい場合は、色だけが変化し形は変化しないような構成になっています。一方、形の違いを認識させたい教具は、形だけが変化し色は変化しないような構成になっています。これを「性質の孤立化」といいます。
 今では、カラフルでシンプルな木製教具は、モンテソーリ教具以外にもたくさん出回っています。しかし。モンテッソーリ教育の教具においては、単に子どもがそれと戯れるということを目的としていません。そこには、どの感覚器官を使用して認識する教具であるのかという論理的視点が必ず存在しています。モンテッソーリ教具は、その目的を達成するために構成されているのです。色鮮やかだから子どもが喜ぶだろうという視点のみから作られた教具は、あくまでもおもちゃとしての視点であって、感覚器官を鍛えるための教具ではありません。それは、子どもたちの感覚器官を混乱させるだけで、感覚教育にふさわしい教具とは言えないでしょう。
 モンテッソーリ教育のもう一つの特徴は、そうした教具を整然と棚に陳列し、いつでも誰でもそれを使用できる環境を保っているということにあります。この「環境」には重要な意味があります。教具がいくらたくさんあったとしても、それが段ボール箱に詰め込まれていたのであれば、それは環境とは言えません。誰もがどこに何があるかということをきちんと把握できるように、教具は、それぞれの場所がちゃんと決まっているのです。また、取り出しやすいように、その陳列の仕方についても、向きや順番などがきちんと決まっているのです。
 モンテッソーリは、その「教師の心得12か条」の中で、環境の整備を第一の条項として掲げています。それは、環境が整備されるということが、それほど大切であるということを物語っています。そして、環境の整備にこそ、「整理する」ということの本当の意味が隠されているように思えてなりません。つまり、「環境の整備」とは、すなわち「整理すること」と言ってもよいのではないでしょうか。
 「物」は使える状態になってはじめて「物」としての本来の役割を果たします。しかも、自分だけしか使えないというのであれば、それもまた、共有物としての「物」の役割を果たしたとは言えません。つまり、「物」が「物」でありうる所以は、「整理の概念」とけっして切り離すことができないということなのです。モンテッソーリ教育では、この環境の概念一つをとってみても、物の整理の概念と深く関係していると言えるでしょう。

教具の提示とは?

 モンテッソーリ教育で使用する教具には、厳格な使用手順が定められています。そして、まず、大人はその手順を子どもに示して見せることからはじめます。このことを、モンテッソーリ教育では、教具の「提示」と呼びます。その場面をはじめて目にした人は、何と堅苦しいのかと嫌気がさしてしまうかもしれません。なぜなら、一つひとつの動作が細かくなりすぎているということもさることながら、イライラするほどスローテンポだからです。
 たとえば、教具を使用するときに使用する下敷きカーペットがあるのですが、その広げ方やしまい方などについても一挙一動、細かくそのやり方が決まっているのです。大人は、子どもへの提示の際、このやり方に従ってカーペットを広げたり、また巻いたりしなければなりません。しかも、ふつうなら5秒~10秒で済むだろう作業に、1分以上もかけることもあるのです。「こんなこと、子どものやりやすいように自由にさせてあげたらよいではないか!」と誰もが思うかもしれません。
 しかし、ここにモンテッソーリ教育の驚くべき論理的裏付けがあるのです。子どもの行動は、すべて大人の行動を真似ることすなわち「模倣」からはじめます。そして、その「模倣」をわたしたちの祖先は繰り返し行うことによって文明社会を築いていったと言ってよいでしょう。こうした模倣の能力は、ミラーニューロンという神経細胞の作用に関係しており、また、模倣の繰り返しが文明社会を築き上げるということは、文化の複製子(ミーム)という考え方に基づいています。
 この点については、「能力開発のしくみ」で詳しくお話ししたいと思いますが、いずれも真似をすることすなわち「模倣」が、人間という生物にとって非常に大きな意味があり、またそれは同時に文明社会の構築の原動力となっているということだけ、ここでは確認しておきたいと思います。モンテッソーリ教育における「提示」は、こうした「模倣」という人の生物学的根拠にしっかり基づいているのです。
 人の行動をしっかり模倣できるようにするためには、まず提示の段階においてそれ相当な時間を必要とします。大人は、自分の行動の一つひとつを分解し、隅々までしっかりと子どもに見せてあげる必要があります。スローモーションのようなスピードで行動の一つひとつをゆっくり見せてあげなければ、子どもはそれを理解することができず、その行動をうまく再生できないのです。モンテッソーリ教育では、大人は、自分が行うおよそ8倍のスピードで提示しなければ、子どもには伝わらないとされています。
 楽器を演奏される方なら経験があると思いますが、どんなに早い演奏もそれをコピーするときは、実際の演奏速度よりもかなり遅いスピードで何度も繰り返し練習します。演奏家は、こうした練習法を何度も経験していくうちにそれほど時間をかけなくてもコピーができるようになってきます。子どもの真似るスピードも同じです。スローモーションによる提示を何度も経験した子どもは、大人の行動の細部までもしっかり分解し、隅々まで見る力を養っていきます。そして、いずれは、早いスピードでも正確に模倣することができる大人へと成長していくのです。
 以上、お話ししたように、教具の基本的な使用法は、まず大人が先に提示します。子どもは黙ってそれを見ているだけなのです。そうして、すべて見終わった段階で、「やってみる?」と声をかけ、本人が「やりたい」と答えたら、実際にやらせてみます。興味を持たないようなら、無理強いをしないというのがルールとなっています。これは、モンテッソーリ教育が、「興味→取り組み→集中現象→成功体験→新たな興味」を繰り返すことによる好循環を狙っているためだと考えられます。
 子どもには、まだ自分では少し難しくてできないことに興味を持ち、実際に取り組み、そこに集中現象があらわれ、最終的に大人が提示したことと同じようにできたら、その成功体験がさらに難しいことへの興味につながっていくという性質があります。このような時期こそが「敏感期」と言われるものなのです。そうした何でも素早く吸収しようとする幼少期の性質は、大人のそれと比べると格段にレベルが高いものだと言われています。
 この時期に、単に自分がすでにできる動きだけを使って、おもちゃと戯れることだけを繰り返していたとするならば、それは、こうした敏感期における子どもの興味の向上を妨げているということになってしまっていると言っても過言ではありません。そうした状況は、子どもにとってはそれほど不快なことではないでしょうから、ついつい大人は特に気にすることもなく無為な時間を過ごさせてしまいます。しかし、大人はそれに気づかなければなりません。
 モンテッソーリ教育において、子どもがどのような教具を使って遊ぶかは、子どもの興味の赴くままの自由選択に従うというルールになっています。しかし、大人は、子どもがマンネリ化する一歩手前で、少し無難しい教具への取り組みを誘ってあげることで、子どもたちの新たな興味を刺激することができます。こうした大人の努力により、「興味→取り組み→集中現象→成功体験→新たな興味」の流れが生まれ、子どもたちは模倣の能力をさらに向上させていくのです。そして、やがては文明文化の担い手として成長していくことになると言ってよいでしょう。

「お仕事」としての「遊び」!

 モンテソーリ教育では、教具を使った作業や遊びのことを、「お仕事」と呼びます。「今日はどんなお仕事をしますか?」「お仕事できましたね!」などといった言葉がモンテッソーリ教育の現場では、飛び交っていますので、何か作業でも強制されているのかなと思ってしまいます。わたしたち大人は、「仕事」というと、ついつい強いられてやらなければならないものといったイメージでとらえてしまいます。しかし、モンテッソーリ教育においては、何よりも子どもの自主的な選択を優先し、自由を保障しています。仕事なんかを強制させているはずはありません。
 「子どもの仕事は遊ぶこと」などとよく言われますが、モンテッソーリ教育で言う「お仕事」は、これとも少し異なるような気がします。それは、モンテッソーリ教育で言う「お仕事」が、基本的には、子どもが単に戯れるような「遊び」を指しているのではなく、子どもが本質的に求めている興味に訴えかける「遊び」のことであるからです。そして、子どもが本質的に求めている興味に訴えかける「遊び」とは、ものごとを分類し序列し、つまり自分が安心できるように自分を取り巻く環境に変化を加えていく作業のことを言います。
 実は、大人たちが日々行っている「仕事」も、わたしたち人間が幸福に生活できるように、わたしたちを取り巻く環境を整理して把握し、そこに変化を加えていく行為なのです。これは、個人レベルでは、義務として感じる場合もあるでしょうが、全社会的、全人類的に言えば、わたしたち人間の誰もが本質的に求めている興味であると言ってよいでしょう。このように考えると、反対に、わたしたちが日々行っている「仕事」とは、実は「遊び」としてとらえることができ、子どもたちの「遊び」は、実は「仕事」と言い換えることができるのかもしれません。
 このように、本質的な意味での「遊び」とは、「仕事」のことであり、したがって、モンテッソーリ教育では、子どもたちの「遊び」を「仕事」と呼ぶのです。大人の世界でも、「仕事」に興味を持って、真剣に取り組んでいる人は、よく「趣味は仕事だ」とか「仕事が生甲斐だ」などといった表現をしたりします。もちろん、どんなに楽しい仕事でも、それが他人とのかかわりでできている以上、いくらかの制約はあるはずです。しかし、そうした困難の解決をも含めて、仕事を楽しんでいるという人は少なくないのではないでしょうか。

「秩序感」が「集中現象」を生む!

 幼児が身近におられる方なら一度は目にしたことがあるはずです。普段は元気いっぱい暴れまわっている子どもが妙に静かだなと思って覗いてみると、せっせといたずらに励んでいるのです。そんな姿を見ては、「またやっているな…」と思い、お母さんは怒るタイミングンを見計らっていることでしょう。
 幼児のいたずらのほとんどは、戸棚の物を出しては瓶の蓋を空けたり、その中の物を別の容器に移そうとしたりといったもので、特に台所にはそうしたものがたくさんあり、子どもにとってはいたずらのパラダイスなのです。こうした行為は、子どもがそこに何が入っているのかということに興味を持ち、それを自分の思いとおりに並べ替えたり入れ替えたりすることで、何よりも物に対する自分の心の安定を模索しているのです。
 そうした幼児のいたずら行為は、もちろん大人を困らせようと思ってやっているわけではありません。むしろ、その行為自体をまるで作業のように真剣に取り組んでいるのです。大人からすれば、せっかくきちんと整理して収納しているのに、それを散らかしているとしか思えません。しかし、当の本人からすれば、その物に対する自分の心の安定を一生懸命に投影しようと、あちらの物をこちらに移し、こちらの物をあちらに移したりして、分類・序列しているのです。これは、結果的には整理にはなっていませんが、本人は至って真剣に整理をしているつもりなのです。幼児のこのような物の分類や序列をとおして安心を得ようとする性質のことを「秩序感」と呼びます。
 そして、そうした「秩序感」は、ときに異常なほどの集中状態を生み出すことがあります。分類や序列などの作業があまりにも面白くて、一旦そのようなモードに入ってしまうと、人の声も聞こえないくらいに集中することがあるのです。これを「集中現象」と言います。「集中現象」は、モンテッソーリ教育法において、幼児が一つの作業に没頭し、一心不乱に取り組むことがあるという現象として紹介されています。そして、その現象の原因の多くが、物の分類や序列の作業のときにあらわれるというのです。つまり、幼児の分類し序列しようとする「秩序感」こそが「集中現象」を引き起こしているのです。
 そして何よりも重要なことは、こうした分類・序列の作業のあとに、必ず「やり遂げた感」があれわれ、そうした体験の繰り返しが、やがて「集中力」として定着していくのだと考えられます。さすがに大人になってからは、人の話も聞かないくらい集中することはあまりないかもしれませんが、それでもある一定のスポットに入ってしまえば、大人であっても一種の集中状態を引き起こすことは十分にあります。そして、それは、幼児期の「秩序感」が「秩序の感性」として定着した賜物であると言ってよいでしょう。
 やる気を出すためには、いろいろなアプローチがあると思いますが、「秩序の感性」にもとづく「集中力」に勝るものはないのではないでしょうか。なにせ、人に言われて行うのではなく、自分の心の底から湧き起ってくるのですから。そして、それがベースになっている人のやる気は、継続的なサポートも必要なく、ある意味無敵と言ってもよいのではないでしょうか。
 ちなみに、どの企業においても、その人事労務管理において、共通して求める人材像というものがあります。それは、「自らが自発的に働いてくれる」という人材です。この点については、とかく精神論として片づけられることが多く、たとえば、「自分で進んでやりなさい」とか「仕事を待っていてはいけない」とか、そんなことを口酸っぱく言われるのです。
 しかし、こうした喚起もやはり継続的に行われないと、人はついつい安きに流れてしまうものです。それどころか、最近では「指示されていないのでしませんでした」とか「それは私の仕事ではありません」とか、何の悪びれもなく堂々と口にする若者さえいるのです。このような発言は、「私にとって仕事はまったく面白いものではありません。」と上司に豪語してしまっているようなものです。
 自発的に働いてもらうためには、その仕事に対する興味が湧いてこなければなりません。しかし、人にはそれぞれ好みというものがあります。この世の中にあるすべてのものに対して興味を持てと言われても、それは無理な注文というものです。ただ、一つ言えることは、なんでも分類・序列しようとする「秩序の感性」に関しては、分類・序列そのものを楽しく思い、そこに集中状態が生まれるということなのです。その対象が好きな仕事であれ、そうでない仕事であれ、本人の興味の対象は、仕事自体ではなく、分類・序列すること自体にあるのです。そう考えると、「秩序の感性」にもとづく「集中力」は、自発的に働くためのきっかけとしてその大きな役割を担うことになるのではないでしょうか。

「自立」と「自由の保障」が重要!

 モンテッソーリ教育の最終目的は、子どもが、自分で考え自分で判断し自分で行動する、いわゆる「自立」した人間をつくることです。周りが援助することもなく、また、支配することもなく、一個の人間として自立し、社会の関係の中で調和し、自らの役割を全うする、こうした人間を世の中に送り出していくことこそがモンテッソーリ教育の真髄です。そして、こうした自立した人間は、今、日本の企業社会が求めている人間像とぴったり適合していると言ってよいでしょう。
 モンテッソーリ教育における大人の役割は、この目的を達成するために、子どもの環境を整え、必要な場面で必要最小限の援助を行うだけなのです。自立するように精神教育を施したり、叱ったりはしません。ひたすら、実践をとおして子どもに自立のサイクルを体感してもらうだけなのです。そのため大人は、まず、子どもに対して自由を保障してあげなければなりません。しかし、自由と言っても放任ではありません。
 大人は、取り組みに無関心な子どもに対しては、誘いかけを行う必要があります。助けを求めるそぶりを見せている子どもがいないか常に観察し、そういった子どもがいれば、さりげなく近くに寄って、求めがあれば即座に応じてあげられるように待機しなければなりません。子どもは、困ったときに、即座にサポートしてくれる人がいないと、その時点で作業を継続する意欲をなくしてしまうことがあるからです。
 「ただ自由にさせてあげる」ことは、放任にほかなりません。そこに大人の義務は何ら存在しません。しかし、「自由を保障する」ということとは、強制や干渉はしないけれども、子どもの作業に対する動機や意欲を損なわないようにサポートするという、大人の子どもに対する義務が存在していると言ってよいでしょう。放任により、無気力な状態の子どもをそのまま放置するということは、動機づけや意欲の継続に関し未熟な子どもが、自分の享受できる楽しみという権利を奪われてしまっているということなのです。
 自由が保障されると、子どもは作業に集中することができます。ときに集中現象を引き起こし、寝食を忘れて没頭することもあるでしょう。その結果、作業がうまく完了すると、子どもは満足します。大人は、この過程を見て、「かんばったね」と声をかけてあげたくなるかもしれませんが、当の本人は、敏感期のもと、その作業を単に楽しんだだけなのです。こうしたときは、「できたね」と一緒に喜んであげるだけでよいのです。子どもにとって、喜びの対象は「努力」ではなく、「完了」なのです。モンテッソーリ「教師の心得12か条」の第12条では、「仕事(作業)が済んで、快く力を出しきった子どもを静かに認めながら現れなさい。」としめくくっています 。
 このように、成功体験をした子どもは、さらに高度な作業やまったく別の新たな作業に取りかかろうとします。つまり、この繰り返しが自発的な動機づけを呼び起こすのです。また、そうした成功体験は、途中で失敗しても、何度か繰り返すことで、必ずその作業が完了するということを予測できるようになります。つまり、これが、誰の助けがなくても、自分だけで完了することができるという、意欲の継続につながっていくのです。
 このような経験をとおして、子どもは自発的に動機づけを行い、他の援助なしにその意欲を継続するようになるのです。つまり、これこそが「自立」した人間であると言ってよいでしょう。そして、今、日本の企業社会は、なんでもかんでも指示をしないと働かないような人間ではなく、自分から進んでしかも楽しんで働けるような人間を求めているのです。この自立した人間をつくりだす方法論こそが、モンテッソーリ教育の教育理論に隠されているのではないでしょうか。

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